三回忌の三船・H01年 | 【父・鶴田浩二H12.06】(三船敏郎)より 鶴田の三回忌。三船は入院中で背中にチューブを入れられながら出席、法要の間中毅然とした態度を崩さなかった。 |
三船の離婚騒動の感想・S50年頃? | 【鶴田浩二H09.06】(三船敏郎)より 「三船敏郎は、あの離婚騒動の時に、長年連れ添った奥さんのことを悪女だと罵倒していた。男として口にすべき言葉ではない」 |
「太平洋の嵐」勝浦ロケ事件・S35年 | 【山脈をわたる風H05.05】(憎たらしいが可愛い弟)より 池部がロケ宿に着いたのが夜中の12時近く彼の個室は三船が使っているので大広間で皆と一緒に寝ろとのこと。個室がないとは無礼じゃないかと問答をしていたら「やめて下さい、鶴田さ~ん」と叫ぶ声と一緒に2、3人の男が階段から転げ落ちてきた。 「あほんだら。あの野郎、殴ったるでえ。池部先輩がくるこたあ、分ってんにゃろ。後輩の手前は廊下で寝ても、先輩には個室に入ってもらうのが礼儀というもんやないか。義理も人情も、心もあらへん。三船も三船やが、東宝も東宝や。わしぁ、帰るでえ。帰る前に、手前だけが東宝のスターだと思ってやがる三船をぶっ殺してやる」とわめいた。(略)はっきり聞きとれなかったが、そんな風に耳に入った。(略) 以来、会えば10m先から「おはようございます」と挨拶を送ってくれた。 池部のエッセイは半フィクションと云うかデフォルメして書かれている様だから面白い。 こういう出来事はあったんだろう。東宝との契約を更新するかどうか考えていた頃か? |
時代劇放談会・S33年 |
この座談は東宝入社第1回作品『旅姿鼠小僧』が撮影終了した日に開かれた。お互いの呼名が「ツーさん」「びんさん」になっている。 巌流島の決闘場面は浜に足跡がつくからとぶっつけ本番で撮ったようだ(S30.11月)。……[明星夏の増刊号S33.9] |
「続・宮本武蔵」ロケ風景・S30年 |
← 伊豆のお山はロケ日和 ↓ 小次郎になるまで (21コマ中の4コマ)……[平凡スタアグラフ第7集S30.5] |
東宝にやって来た鶴田浩二・S29年 |
ロケ・セットに御招待より 鶴田浩二が生れてはじめて、東宝の門をくぐった。『男性ナンバーワン』で、三船敏郎と共演するためである。しかし何分にも、すべての設備、地図がはじめてなので、いろいろと困ることがある。だから、鶴田の接待案内役には三船敏郎が任じている。 「鶴田君、今誰にお辞儀したんだい」 「ほら、あそこに行く頭の禿げた男」 「あれは君、守衛さんだよ、少しお辞儀が丁寧すぎるよ」 「あ、そうか」 てな珍場面が時々展開している。 「越路吹雪です」 「はじめまして、鶴田です、どうぞよろしく」 てな具合で、紹介役三船敏郎のセレモニーで二人のスタアは初対面の挨拶を交わした。 「だがおかしいなァ」 と、突然の鶴田の言葉に三船がいぶかしそうにきくと、 「だって『男性ナンバーワン』では、僕の情婦になるのが越路吹雪さん。三船君は、劇中では、僕に彼女は紹介されるんだが」 「そんなつまらないことを考えないで、世界一のシャンソン歌手越路吹雪嬢に、君ももっと歌を教えてもらうんだね」 とは、時々チクリと、ユーモラスな皮肉を言うのが三船のよさでもあり愉しさでもあります。……[映画ファンS30.1] 挿入歌「公園の手品師」 →tube もシャンソン(P1-10・司潤吉は鶴田浩二である)で、「街角のシャンソン」S30.1月と、「夜霧のシャンソン」S30.2月と3曲つづいている。越路に教えてもらったんだろうか??? |
僕の青春手帖・S27年 | なぜ独立して新生プロダクションを作ったか?etc. 三船敏郎のエピソードがある。……[近代映画S27.9] 写真は「お茶漬けの味」で佐分利信を指導する小津監督。 |
鶴田と三船の経緯・S22年 | 三船敏郎との関わりは、三船初出演のS22年8月封切り「銀嶺の果て」を広島県福山市で見、S23年4月名古屋で「酔いどれ天使」を見て、居ても立ってもいられなくなり高田先生に松竹入社を頼んだ(P2-03・泣き笑い銀幕修行)。 以上のように、演技者としての三船敏郎に衝撃を受け一目置いていたと思う。そうでなければ旅興行の途中で先生に「映画に行かせて下さい」とお願いする性格ではない。興行に区切りがつくまで同行しただろう。 初共演は「男性№1(S30.1)」だがその前のエピソードは(P4-03僕の青春手帖)にある。二人の関係を順を追ってUPします。その中で④の答えも汲みとって欲しいと思う。 |
三船敏郎とのクレジット詮議・S30年~ | 【サムライ 評伝三船敏郎】を読んで、三船敏郎を鶴田浩二ほど知らないからかとても面白かった。二人のことは2頁にわたって書かれている。著者は関係者に取材をしているのだから以下のように聞かされたのだろう! と思うが、疑問が湧いた。管理人は映画人にインタビューなどしたことはない。書かれた物を見るばかりなので証明は出来ないが反論してみる。要約して抜き出すと次のように書いている。 ①・・鶴田は、付き人を何人も引き連れ、スターであることを誇示していた。東宝はマネージャーも専属の付き人もおらず、個室もないという民主的な社風でスタッフの反感を買っていた。 ②・・「続・宮本武蔵」では三船を差し置いてクレジットのトップになっている。この珍奇現象の理由は、鶴田が自分の名をトップにすることを出演の条件として強く望んだからである。 ③・・「続・宮本武蔵」の御殿場ロケで、鶴田は前夜飲みすぎて寝過した ④・・が悠然と構え30分近くかけて支度をし三船は玄関で待っていた。三船は鶴田と一緒に遅れてロケ地に到着することで、大スター気取りの鶴田に反感をおぼえている東宝のスタッフたちにこれ以上反感を持たせないようにした。自分も時間に遅れて到着することで、鶴田を、それとなく、たしなめたのである。以後の鶴田は三船を「ミーさん」と呼び(P4-07時代劇放談会)、名前を呼び捨てにすることはなかった。 ⑤・・昭和35年に移籍をした東映は、スター俳優が遅刻をするのが当たり前という風習が残っていたので居心地がよかったのだろうか? と書かれている。以下はそれに対しての管理人の意見。 ①…付き人とは、東映時代の川谷拓三がよく知られている様にスターが撮影に入った時は大部屋俳優が付くという認識だった。が、多くのスターは付き人と同居していて一緒に行動するらしい。浩ちゃんも付き人と運転手は同居で、スタジオでは一緒にいたはずだ。あとはマネージャー、事務所の人(この頃はクレインズクラブか)、撮影見学のファン等を引き連れていたと思う。東宝が給料を出す訳じゃなし浩ちゃんが払っているんだから文句を言われることもないと思うが。こういう人達がいなければ「鶴田浩二」は忙しくて廻らないと思う。レコード吹込み、雑誌、ステージ、野球etc. ②…後には「世界の三船」でもこの頃は出演料にだいぶ差があったと思う。専属になった時(昭和33年)でさえ出演料は雑誌の憶測だが、鶴田、池部、森繁250万、三船200万だった。……[明星S33.9] 。(P2-10・スタア名鑑)。 画像は浩ちゃん時代の二人のクレジットの順序。 ↓別窓 ③…反感をおぼえている東宝のスタッフなら、出発の時間を間違えて教えたんじゃないかと思ってしまった。 ⑤…基本的に遅刻はしない人だが、0回ではないだろう。「男たちの旅路」最初の本読みの時、1時間遅れたと書かれていた。……[週刊現代H26.9.20-27] 他に「お茶漬けの味」羽田ロケの事を思い出す人がいるかもしれない。 ④は後日書きたいと思います。 |