頁9 &三島

トップ3(不撮)4(&三船)6(軍隊)7(語る)9(&三島)10

 P9-04 H30.10.19
三島事件、後日週刊誌報道・S45年
決起誓い合った盟友・鶴田浩二の悔恨……[週刊サンケイS45.12.28]

 これが当時のジャーナリスト一般の認識か。プレイボーイ誌(S44.7)で対談した時に、それともその夜三島邸を訪ねた時に「自衛隊に殴り込む」話をしたというのだろうか。

 P9-03 H30.06.28
三島事件、翌日・S45年 鶴田浩二・歌の断片 上山敬三……【LP「男の演歌/鶴田浩二」解説】

 「僕の歌は、シャベリですよ」と、或るとき鶴田浩二がいった。大いに共鳴した。流行歌の場合「歌は語るべし、楽器は歌うべし」というのが30年来の私の持論だからである。
 鶴田のこの場合の言葉には、多分に、一歩ひきさがって内輪にかまえたひびきが感ぜられた。「僕ァもともと専門の歌手じゃござんせんよ、声と言えば、セリフが第一の役者稼業ですからね。それを歌に生かしているんですよ」というところだろうか……。明かしてしまえば味がなくなるが、あえてお伝えしておこう。

……(中略)曲の解説など……

 冒頭に、或るとき、と書いたが、正確に言うと昭和45年11月26日である、つまり、三島由紀夫が腹をかき切った翌日、場所は大泉の東映撮影所の彼の自室だった。正月映画「博徒外人部隊」の撮影の追いこみ中であった。三島は彼の大ファンだった、という。気嫌のよいときは、右肩を落したヤクザ姿の鶴田のマネをして家をでたそうだ。
 鶴田はいつになく沈痛な面持ちだった。彼を知って20年になるが、あのような鶴田を見たことがない。重苦しい空気の中で私たちは、歌と映画をからませた「男の人生」を語りあったことを附記しておく。 1971.2

 「傷だらけの人生」のジャケット写真を撮ったのは、事件のすぐあとのような気がする。


 P9-02 H29.12.20
三島事件、夕刻・S45年 鶴田浩二が取り出した骨壷……【東京12チャンネルの挑戦】金子明雄より

 もうひとつ、鶴田さんとの付き合いのなかで、忘れられないエピソードがある。昭和四十五年の十一月二十五日、三島由紀夫自決の日のことである。その日は夕方から歌番組の打ち合わせで、世田谷にある鶴田さんの家を訪ねることになっていた。昼間の中継での疲れを引きずって私が鶴田家に着くと、どうも様子がおかしい。「ごめんください」外はもう暗かったが家のなかは明かりもなく、妙にひっそりとしている。奥さんの姿も見えない。勝手知ったるとばかりに玄関を上がると、暗い部屋の片隅で、じっと物思いにふけっている鶴田さんを見つけた。
「どうしたんですか?」おそるおそる声をかけると、それで初めて気が付いたように鶴田さんが振り返った。
「なんだネコか……いや、なんでもないんだ」
 口ではこう言うが、あきらかに普段の鶴田さんとは違う。重苦しい雰囲気から逃れるために、私は何の気なしに、昼間、市ヶ谷へ中継に行ったことを話し始めた。こちらは世間話のつもりだったが、鶴田さんは異様に興味を示す。「それで」「それでどうしたんだ」と現場の様子、世間の反応など、微に入り細にわたって聞きたがった。
 そのうちだんだん言葉少なになり席を立ち、二階へ上がって行ったが、しばらくすると手に小さな壷をもって降りてきた。
「ネコ、俺はここに入る」骨壷だった。
 ちょうど鶴田さんが東映映画「最後の特攻隊」で特攻隊の父といわれる大西瀧治郎をモデルにした指揮官・宗方大尉の役を演じた頃のことだ。三島の自決に自分の気持ちをだぶらせているのだと感じた。
「俺が死ねば、これにおさまる」鶴田さんは私に言い聞かせるように繰り返して、そのまま押し黙った。私も返す言葉のないまま、鶴田さんが手にした壷を見つめていた……。壷には戒名が記されていた。
 約三十年余り前の話だが、当時の日本には、(以下略)

 事件の時、著者は現場の中継を担当していた。

 P9-01 H29.12.06
鶴田浩二と三島由紀夫2・H22年昭和45年11月25日三島由紀夫自決 日本が受けた衝撃 H22.09】中川右介より

 俳優鶴田浩二の娘、愛弓(あゆみ、当時十四歳)によると、この日、鶴田は映画撮影のために京都にいた。父と三島とが親しいことを、愛弓はよく知っていた。

続きは「幻冬舎plus」で読めます。

トップ3(不撮)4(&三船)6(軍隊)7(語る)9(&三島)10